浩子の部屋

祖父の祖父

「お母さん、床の間にかかっていた掛け軸は、どっちが治助さんなの?」
と、実家の母に電話で確認してみました。
「立っているのが治助で、座っているのが初代の忠兵衛や。」
私も、どっちがどっちなのか、聞いていながらうろ覚えでした(汗)。治助さんが、非常に商売に長けていたようで、この田舎である篠山が百貨店?本店で、大阪にも支店を出していた?・・・というのです。
null


先日の法事の時に、実弟から聞いていたことがありました。治助さんの商売熱心さが表れているような、その当時の宣伝用チラシがインターネットで出されているというのです。そんな昔のものがよく残っているものなんですね。また、それを持っていて、ネットで配信しているというのも・・・おもしろい時代になりましたね。自分の先祖なのに、自分は全く知らず・・・他人さんが、それを明かしてくれることになる。世の中の廻り合わせって、ほんまに不思議なものです。
null
確かに、「多幡治助」で検索してみると・・・出てきましたぁ〜〜!!
丹波篠山「多幡治助」という名というか屋号で、「和洋小間物・廣價販売」というチラシの中に大阪道頓堀支店というのが見えます。
はぁ〜〜、このことか?!
このチラシ広告は、その当時「引札」といわれ、開店披露や年末年始に配られたものだそうです。また、こんなものを収集している方がおられるというのも、おもしろいというか、興味深いというか・・・世の中には、いろんな方がいらっしゃるものですね。(感心)
その昔、祖母に聞いたことがありました。能勢の片山から、天王峠を越えて嫁入りに来た当時(大正時代)のことです。私の祖父「恒次郎」は、その父「寅吉」が若くして亡くなっていたので、治助じいさんに育てられていたそうです。その父代わりの治助じいさんが、商売上手だったけれど、とっても始末家というか、わかりやすくいうと「ケチ」だったそうです(笑)。
祖母が嫁に来てからは、毎朝早くから、眠い目をこすりながら、かまどに薪をくべてご飯を炊いていました。丁稚さんの分まで、たくさん炊いて、おかずはタクアン2枚だけ。晩ご飯は、お頭付きといえば・・・実は、メザシ一匹だったということもありました。
それはそれは・・・ほんまに始末というか「もったいない精神」を大いに発揮?していたようです。
おばあちゃんが言っていたことば・・・
「おじいさんは、ほんまにきびしかったでぇ〜!」
能勢の地主の娘として育った祖母は、それまで食べ物にはあまり不自由しなかったのに、商人の家に嫁いで、カルチャーショックがすごくあったことと思います。食べたいものが食べられず、辛抱の連続。その昔の時代では、当たり前のことだったとは思いますが、今思い返してみると、ほんとに「忍」の一字の生活であったことでしょう。
その「ケチ」の治助おじいさんですが、その分、商売上手であったことは推して知るべし。このチラシを見て、そう思いました。足元をしっかり固めて、無駄をなくし、利益を得る。商売の基本ですね。そういえば、江上家も商売人の家系です。主人にも、私にも、商売人の血が流れているのですね。自分自身で、あまり気付いていませんでしたが・・・。
多幡家の家訓は、(祖母に聞いた話)
?実印は押すな!(保証人には絶対になるな!)
?神仏を常に大切にせよ!
?楽をするな!一生働け!!

江上家の家訓は、
?一番になるな!二番になれ!!
?体使うな!頭を使え!!
?付き合いは、常日頃が肝心!!

どちらも、商売人は「きびし〜〜い」感じですね。でも、大切な「生き方」を教えてくださっています。先人の知恵に、今、身が引き締まる思いです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Copyright©2024. Egami Hiroko All rights Reserved.