株式会社取締役の中川さんのお誘いで、淀屋橋の芝川ビル4Fにて開催の、「岡田修・津軽三味線モダンテラスコンサート」に行かせていただきました。土曜日午前の診療を早々に切り上げて、13時の開演に間に合うように、出かけます。4Fまで、階段で上がってみると、そこには西洋建築の趣のあるテラスが広がっていました。
会場に入ってみると、もうすでに40〜50名の方が、着席しておられました。
主催者代表の中川さんが、皆さんを案内され、取り仕切っておられました。受付も、どこかで?お会いしたことのある方(以前、古川さん繋がりで中津の焼き肉を食べに来られてた方達)ですし、お手伝いをされているのは、よく知っている方ばかり。主催が、「芝川ビルに集うモダンな人たち」というのですから、それもそのはず・・・(笑)。
中川さんの司会進行で、岡田修さんが紹介されました。颯爽と会場に入って来られたその赤い着物姿。
これは、主催者の皆さんが、岡田修さんの25周年を祝うために、着物リメイクエブリンさんで、誂えたものだと聞いています。背中に富士山の模様が入っているのだそうです。舞台には、青森のねぶた祭りのような絵が掛けられていました。東北のムードがムンムン漂いますね。
「ジャン、ジャンジャ、ジャン、ジャン・・・♪」
津軽三味線の独特の、ど〜〜んとくる、張りのある力強い演奏が始まりました。最初の曲を聴いていると、青森地方の青い空と草原を思い浮かべるような、すごく広がりのある空間に冴えわたる音色のような感じ。ずっと目をつぶって聴き惚れていると、そこに古代の白絹の羽衣を着た女官達が、優雅にのんびりと舞っている姿が脳裏に浮かびます。激しい厳しい音ながら、その音の余韻が、空気を振動させ、くるくると渦を巻くように感じます。
会場は、割れんばかりの拍手。2曲目は、津軽の冬を表した曲だとか。三味線の打楽器的な要素が太鼓のように響き、津軽の厳しい降り積もる雪を想像させます。リズミカルに、でも、重々しく、静けさとそこにある暮らしの忍耐とが表現されているように思いました。3曲目は、三味線を古くから使っておられるものに替え、バチもべっ甲から木製のものに替えて、昔に演奏された音色のままに、聴かせていただきました。新しくて張りのあるものより、とても哀愁のある少し鈍い音色。こんなに音が違うものかと感心させられました。
沖縄の三線とのコラボされた、南風のような曲もありました。津軽三味線といっても、様々な表情が出せるのですね。今までの固定観念が、私の中から消えて行きました。そして、一番ビックリしたのが、「火の鳥」と題された曲。バックに曲を流しながらの演奏です。
燃え立つ炎、広がりまた小さくなりながら、火が燃え上がっていく様が思い浮かびます。天に炎が届いた時に、それは火の鳥になって、夕焼けの大空を、悠然と雄々しく舞うように飛んでいきます。自由と平和と明日への希望という「金粉」を振りまきながら、大空を乱舞しています。聴衆の皆さんの心の中にも、その「金粉」は、届けられたのでしょうか?
最後に聴かせていただいた有名な「津軽ジョンガラ節」。これには、演奏前に岡田さんの講釈がつきました。
「今までの演奏のあとで、いろんな感想を言われます。特にこのジョンガラ節は、テレビとかでよくご存知で、津軽三味線というものに、それぞれの固定観念みたいなものがあるようです。だから、『ふつうのが聴きたかった』とか、『本当のが聴きたかった』とか、『もっと別のが聴きたかった』とか言われます。スミマセン、津軽ジョンガラ節には、本物も普通も特別もありません。あるのは1つだけなんですが、表現の仕方が違うだけです。だから、最初に言っておきますが、これは、僕流のジョンガラ節です。お聴きください。」
テレビで、吉田兄弟とかが演奏しているような、早いリズムではなく、ゆっくりながら、音色のひとつひとつを大切に弾いておられるようでした。左手の弦を爪弾かれる指の動きに見入ってしまいました。軽やかにリズミカルに、しなやかにたおやかに、しかし力強さがあり、安定感があり、その重厚な音色にしばし酔っていました。これは、会場の皆さんも同じだったことと思います。アンコールにもお応えいただいて、大満足の演奏会でした。
休憩をはさんで、岡田修さんを囲んでの茶話会がありました。ここで、いろんな質問が飛び交いました。津軽三味線の皮は、大きな犬の皮を張ってあります。一般的な三味線は猫の皮ですが、津軽三味線は、「弾く」と「打つ」が同時にされるので、もっと強い皮でなくてはいけないからだそうです。弦の張ってある柄は、黒檀でできており、持ち運びがしやすいように3つに分解できるとか。組み立て直しても音色の差が出ないように、かなり精巧にできているようです。弦は、一番太いのと真ん中のが絹糸を撚って作ったもの、細いのは切れやすいので、ナイロン製だとか。
岡田さんは、山形県酒田市の生まれですが、小さい頃から津軽三味線を弾いておられたのではなく、18歳の時(1975)に突然始められたというのです。そのきっかけは、就職した会社の先輩から、津軽三味線のお稽古の発表会を見に来てくれるように頼まれ、しぶしぶ行ったら、そこで、その度肝を抜く音色に、「なんだこりゃ〜!!」と、驚くと同時に感動したというのです。それで、自分もやってみようということで、習い始めたそうです。きっかけって、ほんとにどんなところに転がっているのか、わかりませんね。
それから、仕事を取るか、三味線を取るか、随分悩まれましたが、「この道を行こう」と決意。山田千里氏に師事して修行を重ねられ、28歳の時(1985)には、津軽三味線全国大会にて優勝という偉業を成し遂げられました。「これで頂点を勝ち取った!!」と思い、奥様と共に、和太鼓のヨーロッパ遠征旅行に、エキストラとして付いて行かれたのですが、帰国したら仕事がいっぱいあるだろうと思っていたら、大違い。当時、仕事も無ければ、住むところを借りることも難しいという状況だったとか。音楽家というだけでは、信用がなかった時代でした・・・と、奥さんが懇親会でしみじみ語っておられました。
でも、そんな苦労の中で独自の世界を作り上げて、これからも愛弟子は取らず、ずっと「演奏家」としての道を歩み続けるとおっしゃっていました。
「何故、お弟子さんを取られないのですか?」
「弟子を取ると、生活は楽になりますが、自分の弟子が、僕のマネで固まってしまうのが面白くないんですよ。やはり、それぞれの個性が活かされた独創的な世界を作り上げてほしいからなんです。僕自身、教えるのが上手じゃないし、まだまだだと思う気持ちでいっぱいなんです。」
一流の演奏家は、常に上を視て、自分の演奏技術のさらなる向上にエネルギーを注ぎ込まれるのですね。その素直で前向きで謙虚な生き様に、演奏以上の感動をおぼえました。
火の鳥の 飛ぶがごとくの 赤音(茜)色
演奏ライブはこちらのブログから↓
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