2016年8月号

「噛める義歯」で寝たきり老人が歩き出した!

81歳・男性のAさんは脳梗塞で倒れ、3年間寝たきり状態が続いていた。自宅で妻の介護を受けていたが、食べることも、しゃべることもできなかった。家族はなんとか口から食べさせたい一心で、大分県で開業する河原英雄・歯科河原英雄医院院長の元を訪れた。
 来院当初のAさんは両脇を支えられても歩行ができず、表情もぼんやりとし、口元が半開きで舌がのぞいていた。義歯(入れ歯)が合っていなかったため、満足に噛めなかった。
 河原院長の治療は食物を噛める義歯を作ることから始まった。「噛むことを忘れていたAさんに必要なのは、咀嚼のための筋力を回復させることでした。そのために口を開閉する口腔リハビリを行い、家庭では介護食を利用して、食べる訓練をしてもらいました」(河原院長)
 その効果はすぐに現われた。
 Aさんは治療を受けるたびに生気を取り戻し、通院6~7回で噛めるようなった。同時に医療用のガムでさらに噛む力を回復させるべく「ガムトレーニング」を開始した。このガムは元々子供の噛む訓練用のものだったが、河原院長は義歯につかない特徵に着目し、高齢者用に応用したのだ。
 すると、2ヶ月後には脇を支えられれば歩けるようになり、丸くなっていた背筋もまっすぐ伸びてきた。表情にも笑みが戻ってきた。
 「咀嚼能力を試すためにりんごを食べてもらうと、『おいしい』という言葉が出たのです。来院にて初めて発した言葉でした」(河原院長)
 4ヶ月後、Aさんは介助なしで診療所内を歩けるようになった。足取りもしっかりし、手すりにつかまりながら自力で階段を降りることもできたーー。
 この奇跡的ともいえる回復は、なぜ起きたのか。河原院長からは、次のような極めてシンプルな答えが返ってきた。
 「薬も点滴も使わず、ただ噛めるようにしただけなのです」

「噛む」は人間の尊厳

 介護保険で、ほぼ寝たきり状態の要介護4と5に認定された65歳以上の高齢者は約113万人(2012年の厚労省統計)。団塊世代の高齢化とともにこの数字も増加し、11年後には230万人が寝たきり老人になると推定されている。こうした増加が介護費用や医療費を押し上げる要因となるのは明らかだ。いかにして寝たきり高齢者を減らすかがこれからの医療・介護の課題と言われる所以だ。
「噛める機能を回復させる歯科医療は、その切り札になりうる」 
 こう話すのは、内科医の今井一彰・未来クリニック院長だ。大学病院の総合診療科を経て福岡県で開業し、口腔機能や呼吸機能の改善、アレルギー治療などに取り組んでいる。
「今の医療は、食べられなくなると、管理がしやすい経鼻栄養や内視鏡での胃ろう造設を安易にしがちです。しかし、口から食べるほうが治癒力も上がり、人間の尊厳を保てますし、医療費もかかりません。」(今井院長)
 歯科医療現場では冒頭のような「奇跡」は、結成て珍しくはないのだ。河原院長の患者には、Aさん以外にも噛むことで目覚ましい回復を見せた人が何人もいる。
 その一人、84歳の男性Bさんは軽い認知症があり、介護施設に入所していた。最初の診察時には、介護士に支えられてやっと歩ける状態だった。Aさんと同様、義歯が合わず噛むことができなかった。新しい義歯を作り、同時にガムによる咀嚼トレーニングを開始した。その治療過程はAさんと共通しているが、介助なしで歩き出したきっかけは「アロハシャツ」だった。
「1ヶ月後の診察時に、私のアロハシャツをプレゼントし、本人に着せた途端、一人で歩き出したのです。これには私も介護士も驚きました。何を見ても無反応だったのに噛むことで脳が活性化し、お洒落心が出てきたのです。カラフルなシャツがBさんの”最初の一歩”を促したのでしょう」(河原院長)

胃ろう患者に再び「食べる喜び』を与える口腔・咽頭ケア