2016年9月号
「噛める義歯」で寝たきり老人が歩き出した(2)
また、自力歩行ができない状態から、山登りをするほど活気を取り戻した例もある。
77歳の女性Cさんは「脳梗塞の後遺症でほとんど歩けず、引きこもりの生活が続いていた。身の回りのことができず、夫に支えられておぼつかない足取りで診察室に入ってきた。
その顔は能面のように無表情で、河原院長が挨拶しても無反応だったという。
噛めず、食べられず、話せず、飲み込めずのCさんに義歯を作り、ガムトレーニングを行った。すると、わずか3週間で、普通の食事を噛んで食べられるようになった。夫の献身的な協力もあり、なんと半年後には夫婦で片道約1㌔の山登りを途中で休むことなく続けられるほどになったという。
噛める機能の回復がもたらす目覚ましいリハビリ効果は、なぜ起こるのか。最近の研究でそのメカニズムが次第に明らかになっている。歯学博士で日本顎咬合学会理事長の渡辺隆史・小滝歯科医院院長が解説する。
「噛むと脳の血液量が増えることが多くの実験で確かめられています。ガムを噛むことで脳の血流が増え、働きが活発になり、記憶力や認知機能にいい影響を与えたのだと考えられます」
噛んで飲み込むことは、歯を使い、頬を使い、舌を使い、筋肉をコントロールするといった非常に高度な機能が必要になる。噛むと歯の歯根膜から三叉神経が刺激に伝わり、大脳の感覚野、運動野、記憶を司る海馬、思考など高度な判断をする前頭前野が活性化することもわかっている。最近の研究では、特に、大脳皮質の下部、基底核にある線条体という部分を刺激することがわかってきたという。「線条体は意欲と関わっていて、ここが活性化するとやる気が出て、食べよう、歩こう、という前向きの気持ちが出てくるのです』(渡辺理事長)
寝たきり状態の高齢者を元気にさせるもう一つの方法がある。それが口の中の衛生状態や機能を改善する口腔ケアだ。
高知県で長年高齢者の歯科治療に取り組んできた塩田勉・塩田歯科院長は、病床で生きる意欲を失った患者が、口腔ケアと噛める義歯で、劇的に甦る例を数多く経験している。
塩田院長が忘れられないのは70代後半の男性を歯科衛生士と共に訪問診療した時のことだ。男性は脳梗塞のために半身麻痺になり外出することもなく薄暗い部屋の布団に座ったまま一日中を過ごしていた。顔はげっそりと痩せ、無表情でメモうつろだった。塩田院長が話しかけてもほとんど反応がない。ところが、ベテラン歯科衛生士が話しかけながら口腔ケアを行なうと、それだけで目に力が甦ったという。その後、義歯を入れ、口腔ケアを行なうたびに表情は生き生きし、笑顔が出るようになった。
やがて、自分の意志でデイサービスに通い始めたという。
「我が家に立ち寄ると笑顔で迎えてくれて、帰るときには笑顔で手を振って見送ってくれました。食事を口から摂取することで、元気な頃の自分を取り戻したのです。食べることが、人間性を回復する大きな力になることを確信しました」(塩田院長)
脳梗塞で寝たきりだった70代女性は、ミキサーでドロドロにした食事を夫の介助で食べるのが精一杯だった。彼女は死人のようにやつれた顔をしていた。しかし、口腔ケアを始めて義歯を装着し、普通の食事が食べられるようになると、笑顔が出始め、顔もふっくらして生気が甦ったという。
86歳のパーキンソン病の女性のケースはさらに驚異的だ。彼女は要介護5で寝返りも打てず、摂食障害のため鼻からチューブで栄養補給をしていた。
塩田院長は口腔ケアから開始した。歯科衛生士が濡らした歯ブラシをゆっくりと口内に入れ、歯ぐきだけでなく頬や舌なども優しく刺激していった。その刺激で女性の目が輝き出した。週1回の専門的な口腔ケアをし、日常的な口腔ケアを担当看護師に指導して、鼻のチューブを外してもらった。並行して噛める義歯を入れると、4ヶ月後にはベッドで体を起こし、寿司を食べられるまで回復した。
「歯科衛生士に寄せる患者さんの信頼感も大きく影響しています。歯科衛生士の専門的な口腔ケアを行っただけで、寝たきりで無表情だった患者さんに笑顔が戻り、会話をするようになった例はたくさんあります。口腔内の刺激が脳を覚醒させたのです」(塩田院長)
噛める義歯をつくるのは歯科医のもっとも大切な役割の一つだ。しかし、現実は噛めない義歯で食事も満足にできず、食べることを諦めている高齢者は想像以上に多い。だが、諦めることはない。噛めない義歯でも調整すれば、噛める義歯に変身させることができるのだ。
河原院長が歯科医向けの研修会で実演した総義歯調整では、1時間ほどの時間で、噛めない義歯がリンゴやピーナッツを噛めるように生まれ変わった。
義歯の持ち主は、固いものが噛めないと訴える70代女性。義歯はきちんと装着できるのだが、ものを噛むと動いてしまうため、歯ごたえのあるものが食べられない。義歯の噛み合わせ(咬合)が安定しないのが原因だった。
河原院長は、まず、女性に義歯を装着したまま、咬合状態を正確に記憶するバイトワックスというシートで噛み合わせをチェック、さらに、義歯を外して咬合器という器械に乗せ、咬合紙という薄い紙を挟んで調整し、もっとも安定した咬合ポイントを見つける作業を行った。微妙な違いで咬合が変わってしまうため、慎重さと繊細さが要求される作業だ。
約1時間で調整が終了。調整した義歯を装着した女性はリンゴを口にし、前歯で噛み切り、奥歯で噛みつぶして食べることができた。さらにピーナッツ、巻きずし、骨付きチキンもしっかり噛んで食べられた。女性の顔に、満面の笑みがこぼれた。
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